ありきたりの毎日・・・学校の授業が終わり、俺はコン内官に促がされ公用車に乗り込んだ
これから宮に戻って皇帝陛下から申しつかった執務をこなす・・・
他の生徒と同じ様に放課後遊ぶことなど、俺には夢のまた夢だ
車の窓からミン・ヒョリンの姿が見える。彼女を見ているとなんとなくほっとする
俺は彼女にどこか似通ったものを感じていた。だから彼女に親近感が湧くのかもしれない
これが恋かと聞かれたら、それはなんとも答えられない
ただ俺の中でミン・ヒョリンは特別な友人であることは間違いない
今日もきっと彼女は、これからバレエのレッスンに励むのだろう
そんな様子を思い浮かべて、俺は薄く笑みを零した
車は校門を出て一般道へと入って行った。俺はミン・ヒョリンの姿を振り返りながら目で追った
その時・・・
<キキキキーーーッ!!>
車が急ブレーキを掛け停車し、驚いた俺は何があったのかと前方を凝視した
車の前に大きく目を見開いたお団子頭が見えた。誰だ・・・お前は・・・全く知らない生徒だ
その女と視線が交わった瞬間、俺の意識は暗闇に包まれた
【殿下は・・・殿下の容体は・・・いかがなのですか?】
【それが・・・どこにも外傷はなく、また内臓に損傷している様子も一切見られません。】
【だったらなぜ目覚めないのです?あなたは国一番と評判の高い名医でしょう?
おかしいじゃないですか!!】
温厚なコン内官が珍しく声を荒げている・・・何をそんなに怒っているのだ?
そう思った瞬間、俺の目の前に病院のベッドで横たわっている俺の姿が見えた
なんだ・・・これは・・・
【心拍数も呼吸器にも異常はありません。なぜ目覚めないのか不思議でなりません。】
【なんとかしてください!!これは国家の一大事ですぞ!!】
『まさか・・・俺は死んだのか?』
自分の身体を見下ろしている自分に俺は相当動揺したらしく、そんな言葉が口をついて出た
その時
『死んでないって!お医者さんもそう言っているでしょう?』
突然、隣から聞こえてきた声・・・俺は恐る恐るその方向に目を向けた
『おっ・・・お前はお団子頭!!』
『お団子頭じゃなくてシン・チェギョンだよ。』
意識を失う直前目に焼きついた女・・・その女が俺の横に居る
しかも二人揃ってふわふわと宙に浮いているじゃないか!!
この現象は一体何だ?
『死んでないのなら、なぜ俺達は浮いている?』
『そんなの私に聞かれてもわかんないよ。とにかく魂が身体から抜け出ちゃったってこと・・・かな?』
『お前は?お前の身体は一体どんな様子なんだ?』
『私も皇太子殿下と一緒。どこにも異常がないのに意識が戻らない。・・・どうしてなんだろう。』
『お前っ!!少しは責任を感じたらどうだ?仮にも皇太子の乗った車の前に飛び出したんだぞ!』
『確かに飛び出したけど・・・ぶつかってないもん・・・』
『ぶつかっていないのに、なぜ俺とお前だけが意識不明なんだ!車には他の人間も乗っていた。』
『だから~そんなこと私に聞かれてもわかんないって~~!きゃ~~痛いっ!!』
俺はその女のお団子頭を両手で掴み、怒りのあまりギュッと握りしめてやった
それから俺は宙に浮いた状態から、思い切って下降し自分の身体にぶつかってみる
そうしたら元に戻れる様な気がしたからだ
だが・・・俺の魂は俺の肉体を難なく擦りぬけ、寝ているベッドさえも通過した
『そんなことしても無駄だよ~!私もやったけどダメだった。』
背後から憎たらしいその女の声が、俺の背中に向かって掛けられた
つっ・・・なんて災難だ・・・俺は仕方がないので、ベッドの傍らで憔悴するコン内官の横に行ってみる
『コン内官!!私はここだっ!!』
コン内官に向かって話し掛けてみるがなんの反応もない
『無駄だよ。見えないし聞こえないみたい。私も病室に居る両親にやってみたもん。』
『だったらどうしたらいいんだ!!』
身体から魂が抜けだしてしまったと言う不測の事態に、俺はその女の両肩を掴むと揺さぶった
この女に当たり散らしても仕方がないとは思ったが、怒りのやり場が他にはどこにもなかった
なぜなら話せるのも触れられるのも・・・今はこの女だけだ
『そんなに怒らないで・・・。ねっ♪皇太子殿下、こんな機会滅多にないでしょう?』
『こんな機会が滅多にあったら堪ったもんじゃない!』
『どこか行こうよ。私が案内してあげる。』
『どこか?ここを離れて戻れなくなったらどうするんだ!』
『戻れないなんてこと絶対にないよ。だって・・・二人共どこも悪くないんだもの。ねっ♪行こ行こ~♪』
能天気なこの馬鹿女に手を掴まれ、俺達は病室の窓から外に出て行った
空を・・・飛べるのか?あぁ・・・なんだかとても自由になった気分だ
俺は眼下に広がるその光景に感激に近い感情を持ちながら、ふとある一点に目を向けた
なにやら・・・みすぼらしい者達が集まっている。
早速俺は隣にいる馬鹿女・・・シン・チェギョンと言ったか?そいつに問い掛けた
『なぁ・・・あの者達は一体何だ?』
『ん?あぁ・・・あの人達?行ってみよう~♪』
俺はそのシン・チェギョンに引っ張られ、そのみすぼらしい男達の群れの中に降りて行った
転がった酒瓶・・・清潔とは決して言えない衣服を纏った男達。いや・・・中には女もいる
『酷い有様だな。この国にこんな場所があるなんて・・・』
『そりゃ皇太子殿下はこんな場所知らないだろうけど・・・これも現実だよ。』
『どうしてこの者達は、こんなところに居るんだ?』
『ここで暮らしているからよ。』
『ここで・・・暮らす?こんな路上でか?』
『うん。その辺りにある段ボールを被って寝るの。』
『何故お前はそんな事を知っている?』
『学校帰りに見たことあるもの。』
にわかに信じられない話だ。こんな暮らしぶりをする人間がいるなど、俺は聞いた事もないし
見たのも初めてだ
確かにその人間によって生活レベルはあるだろうが、ここまで身を落とす原因は一体何だ!!
憤る様な気持ちで俺はチェギョンに問い掛けた
『なぜ・・・こんな暮らしをしているんだ?』
『それは・・・人によって其々の理由があると思うけど、一番多いのは失業かな。』
『失業だと?つまり働く意思がないと言う事か?』
『そうとは言い切れない。今は企業の人員整理の為に働き盛りの世代がリストラされる事も多いからね。
それにリストラされた中高年の再就職は難しいの。
現にうちのお父さんだって・・・』
チェギョンは口を噤み目を伏せた
『お前のお父さん?』
『うん。実は失業中なんだ。一生懸命働いてきた世代だって言うのに、呆気なくリストラされちゃって。
その上・・・お友達の借金の連帯保証人になったら、そのお友達にも逃げられて・・・』
『不幸のどん底だな。』
『そうなんだ。路上生活も人ごとじゃないってわけ。我が家で金目のものって言ったら私くらい?』
『あぁ?お前が金目の物になる筈がない。』
『それがさぁ・・・怖~い借金取りさんにとっては、私しか金目のものは無いらしい。』
『ありえない。子供を借金のかたに売る親なんているのか?』
『そんなつもりはなくてもそうなる事はあるって話・・・』
『情けない父親だな。』
『誤解しないで!お父さんは何も悪くない。ただ人が良すぎただけだよ。
あ~~!!もうやめよ!こんな場所・・・皇太子には似合わない。』
『皇太子はやめろ。シンでいい。』
『シン・・・くん?』
『あぁそう呼べばいい。しかし・・・本当にそんなに就職難なのか?』
『うん。学生だっていい大学出なきゃ碌な仕事につけないし、特にリストラされた中高年は難しいよ。
シン君・・・シン君は皇太子でしょう?この状況なんとかして!!』
『なんとかしてって言われても、今はまず自分の身体に戻るのが先決だ。』
『そうだった。もう他に行こうか。』
チェギョンは俺の手を掴むと黄昏時の空を浮遊して行く・・・あ?あそこに見えるのは俺達の高校じゃないか?
『学校・・・行く?』
『そうだな。放課後まで学校に残った事は一度もないからな。』
俺が何も言わないのにチェギョンはその行く先を、舞踏科のレッスン室に決めたようだ
ガラス扉の向こう・・・ミン・ヒョリンの姿が見える
『シン君の恋人でしょう?』
『あぁ?別にそう言うわけではないが・・・』
『皆噂しているよ。だってシン君の取り巻きの中に女の子は彼女だけだもの。』
『まぁ確かにな。』
『早く戻るといいね。彼女が心配する。』
『お前にも心配する奴がいるんじゃないのか?』
『え~~っ?私?いないいない~~あははは~~♪
さて・・・私は病院に戻ってみるけど、シン君は一人で帰って来られる?』
『いや・・・俺も一緒に帰る。』
帰るってどこへ?自分の身体のある所へか?
一人取り残される不安に耐えきれず、俺はチェギョンと共に病院に戻って行った
不思議なことにミン・ヒョリンに後ろ髪を引かれる想いは微塵も感じなかった
『まだ・・・戻れる様子もないな。』
俺は自分の身体を見下ろしながらチェギョンに問い掛けた
『うん。一体どうなっちゃってるんだろうね・・・』
しばしの空中散歩を楽しんで帰れば、てっきり自分の身体に戻れると思っていたのかチェギョンは項垂れた
『おい!俺の意識が戻ったら、お前にはこの責任を取って貰うからな。
借金取りどころじゃない怖い皇室警察に連れて行かれるぞ。』
ほんの冗談のつもりだった
なのにチェギョンは顔色を変えて俺に必死で哀願する
『ちょっちょっと待ってよ。お願いだからそれだけは勘弁して!!
不注意で飛び出しちゃっただけなんだから・・・そう言うことってあるでしょう?』
『ないね。さて・・・お前の様子を見に行くか。』
『えっ?私の様子を見に行くの?』
『あぁ。気にならないか?』
『なるけど・・・一人で戻るよ。』
『いいや、俺も一緒に行こう。』
なんとなく挙動不審なチェギョンの後に続き、俺達は壁をすり抜けるとチェギョンのいる病室に向かう
魂って言うのもなかなか便利だな。くくっ・・・
非常に困惑した状況だと言うのに、不思議なことに俺はどこか今を楽しんでいる部分があった
俺のいた病室とは随分離れた病室にチェギョンは入って行く
俺もそのあとに続いた
あ・・・お団子頭がやはり意識不明か?
横たわったチェギョンの広い額に大きな絆創膏の様なものが貼られている
『お前のでこ・・・怪我をしたのか?』
『あ・・・うん。怪我って言うほどのものじゃないけど、倒れた時にアスファルトにぶつけたみたい。
ただのたんこぶだよ。』
『くっ・・・でかいばんそうこう貼られて。くくっ・・・』
その時、チェギョンのベッドの傍らにいる母親らしい人のすすり泣きが聞こえた
【チェギョン・・・どうしてこんなことになっちゃったの?でもチェギョンは・・・
このまま目覚めない方がいいかもしれないわ。】
【母さん・・・そんな縁起でもない事を言わないでくれ!!】
【だってそうでしょう?あなた!!チェギョンが目覚めたら、また借金取りにこの子は狙われるわ。
このまま目覚めない方が・・・幸せなのよ。】
おいおいと泣き崩れるチェギョンの母親・・・俺はそっと隣に居るチェギョンの様子を窺った
『そんなに切羽詰まっているのか?』
『ん~~だからそう言ったでしょう?あ~もう~~この部屋出ようよ。暗い気持ちになっちゃうよ。』
チェギョンは俺の手を引っ張ると、自分の身体が眠っている病室を離れ俺の病室に連れて行った
『ん~~この状態って眠くならないみたい。どうする?シン君・・・またお散歩行く?』
『あぁそうだな。こうしていても仕方がないしな。』
俺達はまた壁をすり抜け空中散歩に出かけた
チェギョンに誘導され向かった先は修道院だった
『なぜこんな場所に?』
『なんとなく・・・』
入口から赤ん坊を抱えた女性が深刻そうな顔で建物に入って行く
『俺達も行ってみよう。』
『うん。』
その女性は赤ん坊をシスターに渡し、何か書類の様な物を書いている
『あれは何をしているんだ?』
『私にも解らない。ちょっと近くに行って見てみようよ。』
俺達はその母親の元へ降りて行き、その母親の両側から書いている書類を覗きこんだ
『子供の親権放棄って、つまりは子供を里子に出すと言う事か?』
『・・・そうみたいだね。』
『こんなことが庶民は日常茶飯事なのか?』
『そんなことないと思う。多分この人にも事情があるんじゃないのかな。』
『どんな事情があろうと、子供を捨てていい理由にはならない。』
『でも・・・自分の手元で子供が育てられない人だったら?生活面とか色々・・・
人には其々事情があるんだよ。この人がどんな事情なのかは私には解らないけど
きっと二人で生きて行く事は出来なかったんじゃないのかな。
この国は貧富の差が激しいから・・・』
『だったら・・・育てられないのなら、子供なんか産む資格はないだろう?
それは産む前から解っていた筈だ。』
『確かにそうなんだけどね・・・。もしこの人がシングルマザーでさ、自分が働かなきゃ生きていけないのに
子供を預ける場所がなかったらどうする?二人で餓死することなんかできないよ。
ここに子供を預ければこの赤ちゃんは生きていける。自分も働ける・・・。
そんな状況にある人に、世間は優しくないんだよ。』
『それは自己責任だからな。しかし・・・何故お前はこんな場所にばかり俺を連れて来る?』
『だってシン君は貧しい人を知らないでしょう?』
『貧乏自慢か?』
『国民の大半はそんなに裕福じゃないってことを言いたいの。
だからシン君は・・・皇帝陛下になったら、もっと国民に目を向けて欲しいなって思って・・・』
『国民に目を向ける?』
『うん。就職難民で溢れない国に・・・。シングルマザーでも安心して働ける国に・・・』
『あぁ、考えておこう。』
『なんかちょっと疲れたね。戻ろうか。』
『あぁ。』
チェギョンは俺の手を引いて、また俺が眠っている病室に戻って行った
他の誰にも認識して貰えないこの俺が、チェギョンの温もりだけは感じられるからとても不思議だ
病室の中ではコン内官と医師が、俺の身体を見つめ話している
【先生・・・もう一週間になります。どうして殿下は目覚めないんですか!!】
【私にはなんとも・・・お答えできません。】
顔を曇らせるコン内官と医師。あぁ?もうあれから一週間も経ったと言うのか?
時間の感覚がどこかおかしい
その時・・・俺の心拍数を計測している機器に乱れが生じた
どうしたんだ俺は・・・俺は不安になってチェギョンに目を向ける
『シン君・・・身体が透けて来てる。もう戻れるみたいだね。
ね・・・お願いだから、もし私が戻っても、車の前に飛び出したことを罪に問わないでね。
それから・・・一緒に見た光景、忘れ・・・』
チェギョンの声が徐々に小さくなり、自分自身が透けて行くのがわかる
フッと視界が暗くなった次の瞬間、俺は病院のベッドの上で覚醒した
目の前に見える白い天井・・・耳元に聞こえる規則正しい機械音
『殿下っ!!殿下!!お目覚めになりましたか?』
コン内官が俺の顔を覗きこみ涙ぐんでいる。俺は自分の身体の中に戻ったことに漸く気がつき辺りを見渡した
『チェギョン・・・シン・チェギョンはどこだ?』
『は?』
コン内官は不思議そうに俺の顔を見る
『シン・チェギョンだ。公用車の前に飛び出してきた生徒だ。』
『あ・・・その生徒でしたら、まだ意識が戻っておりません。』
俺は目を凝らして宙に浮いているだろうチェギョンを探す。だが身体に戻った俺にチェギョンを見つけることは
出来なかった
その日一日様子を見る為に入院させられた俺は、それから何度もチェギョンの様子をコン内官に問い掛けたが
≪まだ意識が戻りません。≫と同じセリフが返ってくるだけだった
そして深夜・・・誰もいなくなった病室で、俺は宙に向かって問い掛けた
『チェギョン・・・そこに居るのか?早く・・・自分の身体に戻れ!!いいな・・・早く戻れ!!』
チェギョンは俺の声を聞いていただろうか。俺はチェギョンを置き去りにして、自分だけが生還した罪悪感に
深く囚われた
翌日・・・病院を退院した俺は、やはり何度もコン内官にチェギョンの事を尋ねた
もう俺は病院に居ない。チェギョンは自分の身体を見下ろしながら、どれだけ不安な気持ちになっているだろう
その日大事を取ってもう一日学校を欠席した俺は、コン内官に申しつけた
『コン内官・・・シン・チェギョンの家の状態について調べてくれ。』
『まだ意識不明のシン・チェギョンさんですか?それでしたら既に調べが付いております。』
まぁ当然のことだろうな。俺の乗った車に飛び出しただけでなく、俺と一緒に意識不明に陥ったのだから
コン内官は沈痛な表情で口を開いた
『非常に実直な家庭の様ですが、チェギョンさんのお父上が借金の保証人になってしまった結果
大きな借金を抱えることとなってしまったそです。現在お父上は失業中でその借金を返す目途も立っておらず
素行の悪い人間がシン家を度々訪れているようです。チェギョンさんの入院費もままならない・・・』
コン内官の報告は続いているが俺は耳を塞いだ
チェギョンの言っていた事はすべて真実だった
たとえチェギョンが目覚めても、その先に待ちうけているのはチェギョンを≪金目の物≫と目をつけた借金取りだ
気になって・・・仕方がない
チェギョンの状態も・・・目覚めた後の行く末も・・・
頭の中に居座るあのお団子頭が、俺にはどうしても拭い去ることが出来なかった
後編につづく